大人の判断

Jet2003-11-28

ホンダの、そしてすべてのGPファンののど元に刺さったままだった小骨である「加藤大治郎事故調査委員会」による調査結果が発表された。
ホンダによる公式リリース
http://www.honda.co.jp/daijiro/report/index.html
を読むと、「なんだよ結局ブレーキングミスとハイサイドかよ」と思えるほど端的な結論しか述べられていない。“ウィーブモード”という専門用語をわざとらしく登場させ、なにかしら相手を煙に巻いているような雰囲気にも感じられる。ロードレースファンの中には根強いホンダ(あるいはRC211V)責任論者がいるが、これだけ見るとホンダが事故原因を隠ぺいしようとしているという彼らの謀略説めいた言説も、「これでは全く原因が解明されていない」とするかたくなな態度も理解できそうな気がする。
しかし、rsj.jpに掲載されているより詳しい原因究明の全文
http://www.rsj.jp/news/03/11/news-2.html
を見ると、事故発生までの数秒間をフェーズに分けた生々しい一瞬一瞬の分析に固唾を呑むとともに「これは本当に原因が“特定”できない事故なのだ」との思いをあらたにするのである。
報告書は、西ストレート出口からの立ち上がりでバンク角を保ったままフルブレーキングを行なった大治郎車の後輪がスライドして軽いハイサイドを起こし、ライダーがそれを止めようとスロットルを戻したことと、ハイサイドで体が振られステアリングに左向きの保舵力が入力された状態になっていたことから、“ウィーブモード”と呼ばれる不安定な挙動が誘発された、と分析している。
ホンダ責任論者が揚々ととりあげるこの報告書中随一のあいまいな個所が、このウィーブモード発散の際に「加藤車のクラッチが切れていた」というデータロガーの記録だ。クラッチが切れ、後輪にトラクションがかかっていなかったことがウィーブモードの発散にどの程度関係していたか不明だそうだが、報告書はこれが大治郎の操作によるものなのか、「バックトルクリミッター」によるものなのか特定していない。
ホンダ責任論者は、この「バックトルクリミッター」の電子制御が狂い、加藤大治郎を死に追いやったのだと主張するだろう。たしかに、電子制御満載の現在のGPマシンにおいて、そうした電装系は(ライダーにすら)何を引き起こすかわからない魔物のようにとらえられている。しかし、我々部外者には実際のところ、こうしたバックトルクリミッターやたびたび噂になるトラクションコントロール、また一説にはスタート時のクラッチワークすら自動で行なうといわれるフライ・バイ・ワイアが何をどう動作させているか、正確に説明できはしないのだ。
おそらくこの事故の瞬間に起きたことは、実際にこの報告書にある通りなのだろう。コーナーの立ち上がりや進入でブルブルと車体を震わせるマシンなど僕たちはしょっちゅう見ているし、それが問題なく収束することもあれば、マシンとライダーがそのままコースアウトしてしまうのも目にしている。今年の第15戦フィリップアイランドで、ドゥカティトロイ・ベイリスが全く同じようにコーナーの進入時にブレーキングハイサイドを起こして左にコースアウトし、(誰もが一瞬開幕戦の悲劇を想い出したように)頭を強打してぐにゃりとしたまま転がっていったのも記憶に新しい。
ただ大部分の人間にとっては、明確な物理法則に従って運動しているように見えるGPマシンに、外から見えるライダーの操作以外に内部で何やら説明できないコントロールが行われていることが不気味なのは確かだろう。トップスピード、コーナリング姿勢、立ち上がり加速といった単純かつ理解しやすい物差しが、それら電子制御によって曖昧なブラックボックスの中にしまいこまれてしまったのである。あるいはその先に、MotoGPがいつか(人の首がつき出した石鹸箱が2時間パレードするのをただ眺めている)今のF1のようなものになってしまうことへの恐怖を見る人も多いだろう。それが、「加藤の事故はマシンのエラーだ」という信念に近い言説を生んでいるのかもしれない。
ウィーブモードそのものは、委員会の検証により同じ周回で少し後ろを走っていた宇川徹車や、ブラジルGP予選2日目でのセテ・ジベルナウ車でも発生が確認されているという。いずれも消極的なハイサイドとして収束したこれらの現象が、あの開幕戦3周目の加藤車においては大きく発散し、狭いランオフエリアと堅いスポンジバリアが災いしてこの悲劇を生んだという結論に、何ら矛盾はないように見える。ただ電子制御クラッチが一部に関係している「かもしれない」が、本当に「証明できない」のではないだろうか。
朝日新聞にも「真相の解明には到らず」と結局書かれたように、この件はGP史の悲劇かつ残された謎としてこのまま長く忘れられることはないだろう。僕はホンダの責任を問うつもりもないし、極端な陰謀論に与するわけでもない。ただ「はっきりいえるのは本当にこれだけ」であり、でも「ここだけの話」がないかと問われればそうでもなく、しかしそれを公に話すのはそれもまた「真実と違う」……という非常に公正な、そして大人の見方がそこにあると思うだけなのである。
そして、あの時あのシケインスタンドに座っていた一人として、大きな夢と可能性が断たれたあまりある無念の事故として、あの日を記憶するだけである。