妄想(長文注意)

昼の二時だというのに、その通りには人影がなかった。密集して建つ家々のどこかの窓から、かすかにテレビの音が漏れ聞こえてくる。アレックスは路肩に停めた車から降り、窓を開け放したままドアを閉めた。鍵はかけなかった。住居のあるモナコに置いてある特注のフェラーリならともかく、久しぶりの故郷で足代わりに使っているこのくたびれたフィアットが特に目立つとも思えなかった。
靴が細かく砕けたガラスを踏み、じゃりっという音を立てる。「ゾーナ・ノルテ」と呼ばれる、住宅と工場が密集したこのリオデジャネイロ北部の地区は、近年の景気後退とインフレで見るたびに寂れていくのがわかる。ちょっと見回しただけでも、明らかにうち捨てられたとわかる荒れ放題の住居が一、二軒、すぐ目に入ってきた。
「アレッシャンドレ!」
背後から声がした。幼なじみのチッタがハンカチで汗を拭きながら近づいてくる。もう4月、夏も終わりだというのに黄色いポロシャツのわきの下にはじっとりと汗がしみ出していた。
「すぐここがわかったか?」抱擁を終えると、チッタは何度もハンカチを折り返しては額に当て、まぶしそうにあたりを見回した。
「もちろんさ。1マイル先からお前の匂いで分かるよ」アレックスは答えた。自分をわざわざフルネームで呼ぶこのインテルラゴス時代からの古い友人の前で、遠慮はいらない。チッタはふん、と鼻を鳴らすとアレックスの高価なサマージャケットの襟をわざとらしくあらため、先に立って歩き出した。
「で、その少年はどこにいるんだ」アレックスは後を追いながら尋ねた。
「家にいる」チッタは言った。「運が良ければな」
「僕が行くと連絡はしてあるのか?」アレックスは聞いた。
「電話はないんだ」チッタは言い、伸び放題の植え込みに半ば入り口を覆われた路地にすっと入っていった。


路地は予想に反してどこまでも続いているかのように長かった。道で遊んでいた子供たちが、足早に進む二人を手を止めてじっと見つめている。あたりにはかすかに食用油の匂いが漂っていた。
「先週のヘレスは見たのか」足を緩めることなく、肩越しに振り向いてチッタが言った。
「TVでね」アレックスは言った。
「パルクフェルメで一悶着あっただろ」チッタが言った。「また例の二人さ」
「いや、最後まで見ていないんだ」アレックスは答えた。
昨シーズンにイヤというほど見せられた定石通りのレース運びでヴァレンティーノ・ロッシがチェッカーを受けると同時に、テレビは消してしまった。
「そいつは勿体なかったな、01年のカタルニア以来の騒ぎをカメラの前でやるところだったんだ。今回はイタリア人同士じゃないけどな」
「それは見てみたかった気もするな」アレックスはクスリと笑った。すでにいろいろなことが懐かしく思える。
──激動の2005年を締めくくるバレンシアGPの後、総合6位でシーズンを終えたアレックス・バロスパドックに記者を集め、長きに亘るグランプリ生活に終止符を打つことを発表した。複数のメーカーサテライトチームから来シーズンのオファーを受けていたし、巨額の契約金を持ってワールド・スーパーバイクへの参戦を打診しにきたイギリスのチームもあった。しかしアレックスはある計画を秘め「今後はモーターバイク・レースの発展に寄与していきたい」と答えて静かにパドックを去った。
「落ち着かないか」チッタが聞いた。
「正直言えば、落ち着かないよ」アレックスは素直に答えた。「20年GPにいたんだ」
あまりにも長くいた場所と時間から離れて居間のソファで開幕戦を見ているというのは、アレックスにとっても傍に寄り添う妻と子供たちにとっても、まるで別世界に迷い込んでしまったかのような不思議な体験だった。
「わかるよ。でも俺達にはやることがある」チッタは言うと、ある門の前で足を止めた。「ここだよ」

アレックスはその建物をのぞき込んだ。古い小さな工場で、ドアのない小さな入り口がぽっかりと口を開けている。周囲の草の伸び方からすると長い間使われていないらしいが、建物の周りですっかり赤錆ている工作機械に混じって、所々新しめの機器があるのも目についた。
「マッティ!」チッタは工場の暗がりのなかに遠慮せずに入って叫んだ。「マッティ!いるのか」
アレックスは何かにつまずきそうになった。下を見ると、クラックの入った古いクランクケースが転がっている。目を上げると、工場の暗がりの中にはあちこちにモーターサイクルのパーツが積まれているのが見えてきた。フレーム、バッテリー、キャブレターのファンネル、ぼろぼろのタイヤ……。
「いないのかもしれん」一通り建物の中を見回したチッタが、再びハンカチで汗を拭きながらつぶやいた。「いつもこの時間ならいるんだが……明日来ることにするか?」
アレックスはそれには答えず、見慣れたシルエットを見つけてまっすぐ工場の奥まで歩いていった。そこには、埃一つないフェアリングに包まれたカジバが一台、フロントとリアのタイヤを外されて懸架されていた。
「──古いけど、エンジンは元気だよ」
頭上から声がした。
とっさにアレックスが見上げると、天井付近の鉄骨の梁から浅黒い顔がこちらを見つめていた。「マッティ!いたのか」チッタが駆け寄ってくる。
マッティと呼ばれた少年は手にしていたハロゲン球を口にくわえると、天井から下がったワイヤーからするすると降りてきた。黒ずんだ作業グローブをはずしてそばの棚にほうり投げる。
「ごめんなさい、電球を換えてたんだ」
アレックスは少年を見つめた。歯並びのいい、人懐こい顏。身長は自分より少し低い。四肢はすらりとしているががっしりしていて、半ズボンから突き出た両足には強靱さとしなやかさが共存しているのが見て取れた。
「アレックス、これがマッティ──マルチネス・アーメイダ」チッタが紹介した。「マッティ、この人がアレッシャンドレ・バロスさんだ。世界グランプリの──」
マッティがさえぎり、指の長い手を差し出した「知ってるよ。ブラジルのヒーローだ」

ヒーローか──アレックスは握手しながら苦笑した。世界GPのベテランとはいえ、自分のブラジルでの知名度はそれほど高くない。むしろ近年では景気低迷でモーターサイクルレース人口はめっきり減り、スポンサーもほとんど姿を消しつつあった。
「今年は走らないんでしょ?」マッティは言った。「僕にライディングを教えてよ」
「マッティ!」
「いいんだ、チッタ」アレックスは言うと、壁の部品棚に並べられた数個のトロフィーに気づき、近づいて銘板を眺めた。
インテルラゴスを走るのか?」アレックスはマッティに言った。
「うん、125ccと、たまに250ccにも出るよ」
ネルソン・ピケでも勝ったのかい?」国内選手権の優勝トロフィーを見てアレックスは言った。
「うん、もう改修で走れなくなっちゃったけどね」アレックスはうなずいた。自分の頃はジャカレパグアと呼んだあのサーキットは、市の方針で半分に縮小されてしまった。
彼は、それぞれのトロフィーのそばに置かれた小さなプレートに気がついた。そこには、マッティが勝ったそれぞれのレースで、すべてサーキット・レコードを更新していることを示す証明書だった。チッタの方を見ると、彼はアレックスを見つめて満足そうにうなずいていた。
「それで、マッティ──」アレックスはピット二つ分ほどの広さの工場を見回して言った。「レースの資金はどうやって用意してるんだい?」
「お金?自分で出してるよ」マッティは足下に落ちていた工具を拾い上げ、あちこちへこんだスナップ・オンのチェストの中に放り込んだ。のぞき見ると、中に入っている工具はスナップ・オンのものではなかった。「町のお店で働いてるんだ」
「でもそれでは十分じゃないだろう?チームは?」
「ないよ。レースの時は兄貴の自動車工場のともだちが来てくれる」
「お父さんやお母さんは……」
マッティの肩が少しこわばった。彼は壁の釘にかけようとしていたレンチを作業台がわりの鉄板の上にほうり投げ、大きな音ががらんとした工場にひびいた。
「──パパイもママイも、レースには来ないよ」
アレックスはそれ以上聞くのを止めた。
「でも、誰かがサポートしてくれてるね」アレックスは壁際に山のように積まれたぼろぼろの使用済みタイヤを掌で叩いた。「こんなにたくさんのタイヤをレースで使えたんだから」
「ううん」マッティは言った。「それ、これから使うんだ」


アレックスはその場で息を飲んだ。「──これから履くだって?」
「そう」マッティは周囲を片付ながら、ちらりとアレックスを見上げて言った。「新品を買うのなんか無理だからさ。レースの後、地元のチームやバイクショップのところに行って、使い終わったタイヤをもらうんだ」
「これでレースを走るっていうのか?」アレックスは目の前に積まれたタイヤを見つめた。ほとんどがサーキットの過酷な加減速で表面は爛れきり、コンパウンドはほとんど残っていない。中にはトレッドが剥離しかけているものまである。普通こんなタイヤで走ったら、1ラップももたないだろう。
「え?結構使えるんだよ」マッティは手を止めて駆け寄ってくると、目を輝かせて古タイヤを指さした。
「この人は右コーナーでラインを奥に取りすぎるクセがあるから、右はちょっと注意しないとかな。でも左はまだまだ使えるんだ。こっちのタイヤはレースの中ごろまでなら右のヘアピンとかでグリップを稼げるよ。そこが終わっちゃったら、もうちょっと左寄りの、このあたりで加速すれば問題ないから。ラインをちょっと広めに取らなきゃ行けないけど──」
マッティは学者のように顎に手をやりながら、楽しそうに積まれたタイヤを次々と指さしていった。
「わかる?マーブル模様みたいなものなんだ。一見すっかり減っているラインでも、まだトラクションに耐えられる部分があるの。それをうまく組み合わせて使うんだ」
マッティはそばにあった電動ドリルを取り、タイヤに押しつけて言った。「これなんてさ、めっけもん!まだまだ減ってないから、こいつでもう一回溝を掘ればほとんど新品のレインタイヤだよ」
アレックスはわずかに後ずさりすると、深呼吸した。「一つ聞いていいかい」自分がたいへんな出来事にぶつかっているのがわかり始めていた。
「君はあのトロフィーを──サーキットレコードを出した時も、こういうタイヤで走ってたのか?」
「もちろんだよ」マッティは屈託なく答えた。「言ってるでしょ。お金ないって」

アレックスとチッタは工場の外に出た。日差しがまるで機銃掃射のように二人を差した。
「アレッシャンドレ──」
「わかってる」アレックスはつぶやいた。チッタのハンカチを借りて、汗をぬぐいたかった。
タイヤ──そう、すべてはタイヤなのだ。タイヤがグリップするから進み、タイヤがグリップを失うから転倒する。エンジン、サスペンション、ブレーキ──モーターサイクル・レースの要因には様々なものがあるが、それらを最終的に取りまとめてマシンのコントロールを左右するのは結局タイヤなのである。
もしタイヤがレースの最初から終わりまでまったく変化せず、走り始めと同じだけのグリップをライダーに提供し続けたら、そのライダーはおそらく無敵になる。そして、それと似たようなことができるライダーをアレックスは知っていた。
──ヴァレンティーノ・ロッシ。この五冠の帝王は、06シーズンもレーストラックに君臨するのは間違いないと言われていた。他のライダーがMotoGPマシンの強大なパワーでタイヤを消耗させて失速する中、レースの進行に合わせて自由にタイヤの“減らし方”を切り替え、最適なグリップを保ち続けることができるあの天才イタリア人──彼を倒すには、同じくタイヤのグリップを自由にコントロールできる超人的な感性の持ち主が必要なのだ。そしてそれこそが、成熟しつつある4ストローク時代のレーシングライダーに必須の能力となっていくはずだと、アレックスは考えていた。
「チッタ、ありがとう」固くチッタの肩を抱いて、アレックスは言った。「僕が探していたのは、彼だ」
「かき回してやろうぜ、来シーズンは」チッタは言った。「大変なのはこれからだ」
「ああ」アレックスの頭は目まぐるしく動き出していた。去年の9月、ホンダから06年の契約解除を言い渡されて以来、関係者の間を奔走しながら暖めてきたあのプラン──“チーム・バロス”。
いま、そのエンジンに火が入った、とアレックスは確信した。
「行こう」アレックスは携帯電話を取り出すと、強い陽光の下で液晶に目を凝らした。そこには、数ヶ月に亘って交渉を続けたスポンサー担当者の、長い長いリストが表示されていた。アレックスがまず押したのは、石油会社レプソルの短縮番号だった──。*1

【お詫び】妄想全開長文、大変失礼しました(笑)。しかし先日のカタルーニャGPのロッシの“Terxtbook Victory”(筋書き通りの勝利)を見たりすると、あらためてこんなライダーでもなければもうロッシを倒せない……とかガックリきたりして。バロスが来期シートを失うというのは、涙ながらの妄想ですが。
さてさて、立て続けの大プレゼン、自宅の引越し、仕事場のM&A(!)と公私超バタバタの中、気がつけば一ヶ月以上放置かよ!というわけでなんとか再開です。すいませんでした。
ちゃっかりバイクには乗ってますが、ちょっとこの期間に面白い体験もしてきたので、追ってそのことも書こうと思います。

*1:一応念のために…。このエントリーに書いてあることはすべてフィクションで、実際の個人や団体、地名とは何の関係もありませんです。