Water in the Glass

“コップの水をこぼすのはいったい誰だ?”──いよいよ開幕した2005年MotoGP開幕戦、スペインGPを観ながら僕の頭に去来していたのはそんなセリフだった。
序盤数周目にして40秒台中盤に達そうかという先頭集団──セテ・ジベルナウヴァレンティーノ・ロッシニッキー・ヘイデン、そしてマルコ・メランドリ──のラップタイムは、5番手という驚くべきポジションで疾走し続ける中野真矢の活躍をもかき消すかのように、後方のライダーたちから表彰台の可能性をみるみる奪っていく。
──最初から速いものが、速いのだ。そんな当たり前の光景が目の前に広がる。マシンの仕上がり、肉体のコンディション、ラップタイム、グリッドポジション──すべてを隙なく揃えてファースト・グリッドを獲得していたライダーたちが、その力を余すところなくコースに叩きつけて周回を重ねていく。どこかに瑕疵を抱えたままの劣後のライダーたちは、いかに“闘争心”を抱こうとも悲しいかなそこに達することはできない。
10周目、トップグループと第2集団との差はすでに11秒にかかろうとしていた。ポイント圏外の位置から切々と追い上げるマックス・ビアッジや、中盤にくらいつく玉田誠、また台風の目かと思われたジョン・ホプキンスが驚くべき追い上げを見せてくれるのではないかという期待は、あっけなく潰えていく。


様々な乗り方を許容しつつ、油断すると潔く“破綻”した2ストローク500ccのマシンと違って、4ストローク990ccのMotoGP時代では、ライダーとマシンコントロールの間にはかえって高次のバランスが要求されているような気がしてならない。あえて言えば、マシンと人間の間に「正解」のようなものがあるとでもいうべきだろうか。
水をライダーとマシンとの関係とすれば、MotoGPマシンは水をこぼさず走った方が確実に速いタイプに見える。なりふり構わずしぶきを飛ばしながら走ることもできるが、それは必ず「非効率」となって結果に跳ね返り、現在のレーストラックではそのわずかな数値上のロスが完全に雌雄を決する。
水がもっともこぼれない、効率のいい「一致点」は、2ストローク時代のように細くはないが、そのかわり厳格だ。そこから少しでもずれていると、結果は驚くほど異なっていく。その「一致点」を冷静に見つけ出せた者が、4ストローク時代の覇者にもっとも近い場所にいるように見えるのである。
だから「ライバルはいない」と常に公言し「自分を超えることだけが目標だ」と言い放ってシーズンオフ中にひたすらマシンとのマッチングとラップタイムを追い求めてきたセテ・ジベルナウのようなライダーが先陣を切っているのは、しごくまっとうな光景に見えた。求道的なまでに自分を追い込む32歳の素養あるスペイン人は、ひたすらマシンとコースと自分のみを視野に入れ、走り続ける。これまで数ヶ月追い求めてきたマシンとの「一致点」をいかにはずれずに走りきるかということの先にこそ、勝利がある。ジベルナウの姿はそんなふうに映った。

レース中、最初にコップの水をこぼしたのはニッキー・ヘイデンだった。5周目でロッシに抜かれたもののきっちりと表彰台圏内をキープしてきた若きアメリカ人は、19週目の最終区間でフロントをプッシュしすぎ、グラベルに消えた。上位二人に追いつこうとする彼の“闘志”は(これまでの2年間と同じように)マシンとの一致点とずれてしまい、なんとか再始動したワークスホンダのRCVはその役目を全うすることなく翌周コースから去った。
後方では中野、バロス、ベイリス、玉田らのヒートが繰り広げられ、ビアッジが悲壮な追い上げをして第2集団に食い入ろうとする。そして20周を過ぎたところで出現したバックマーカー──ピット通過ペナルティ含め二度もコースを離れながらしぶとくチェッカーをうけることになるルーベン・チャウス、そしてエリソン、バッタイーニ──らが、レースが終わりに近づいていることを告げる。
ロッシとジベルナウの差はコンマ5秒から8秒。誰もが、残り2〜3周で“魔の時間”──これまでのロッシの走りが“様子見”だったことを思い知らされる時──が来ることを予感していたに違いない。リアタイヤを暴れさせ、マシンを少しでも早く立てようと大柄なラインを取り続けるロッシとM1には、まだ水をこぼさないだけの余力があるのか?──答えはもちろん、イエスだろう。
果たせるかな、ロッシは25周目でセテをかわす。「ああ、またか──」絶望しながらも、コンマ3秒から4秒の差にまだ希望をつなぐ。
そして最終ラップ──ヘアピンでのロッシがフロントを暴れさせ、その隙をジベルナウが突く。04シーズンのザクセン以来の迫力を持つマッチレースに、興奮も最高潮だ。
白熱は続いた。アンヘル・ニエトコーナーを挟む高速セクションで、再びロッシが、そしてジベルナウが順位を入れ替える。“水は?コップの水は?”僕は思わずにはいられない。ここまでくれば、どちらがどちらを凌駕するということではない。どちらかが水をこぼす時──それはすなわち、取り返しのつかないミスを犯すときなのだ。

議論かまびすしい接触騒動の後、表彰台の上ですらひたすら内省し続けるジベルナウを見ながら、僕はレースの難しさについて考えていた。彼はベストを尽くしたに違いない。水をこぼさないやり方、自分にとってもっとも速い走り方で。そしてそれは間違いなく、このレースが終わるまではコース上の誰よりも速かった走り方だった。
そう、ジベルナウはそれに固執したのかもしれない。あくまで“タイムで”ロッシより速ければ、彼よりも早くチェッカーをうけられるはずだ。だから、彼は完全なレコードラインで最終コーナーに進入した。ロッシをブロックしてみようという発想はなく、彼がそこで予想外のラインをとることも考えなかった──あるいは、考えないようにしていた。彼はあくまで“そこに相手がいないかのように”最終コーナーを駆け抜けることを選んだのである。
ロッシのラインが果たして冷静なインの攻略といえるものだったのか、そしてジベルナウ接触しなかった場合、数秒後にどのようなラインとなってコーナーを抜ける腹積もりだったのか、それはわからない。しかしレースは人間劇であり、単なるタイムアタックではない。今回は、あくまで「敵は自分」としたジベルナウが「勝負というのは相手をやっつけること」というシンプルさから目を背けなかったロッシに破れた形なのかもしれない。
逆転した自国のエースの運命をまだ受け入れていないスペインの観客による強烈なブーイングにさらされながら、表彰台でかつてないほどすがすがしい笑顔を見せていたロッシ。彼は「レースってのは勝つもんだぜ」とでも言っているように見えた──。