発火点

F1のモナコGPマカオGP、そしてマン島のTTレースに至るまで、およそモータースポーツの楽しみを知るものにとって「公道レース」という響きには特に心躍るものがある。普段暮らしていた道路が封鎖され、見慣れた交差点がコーナーに変わり、なんでもないバルコニーが特等席になる。それは、日常の風景を一瞬にして非現実に変える、街全体にかかった魔法のようなものだ。
石原慎太郎都知事が、三宅島復興策の一つとして「三宅島を1周する周遊道路(正確には“一周道路”)マン島のような公道レースをやったらいい」と発言したのは記憶に新しい。「東京湾カジノ構想」と同じようなアイデア倒れだと揶揄するむきもあるけれど、それを受けてやれ警察が問題だ、安全性の問題はどうする、運営は、コストは、輸送は、などとライダーコミュニティの中では議論かまびすしい。いずれにせよ、リアルな三宅島TT実施プランについてあれこれ思いを巡らすのは楽しいものだ。
しかしながら、そうした議論はいつも「実施は無理だ」との悲観論に集約していく。曰く、「警察や自治体は死者のでる可能性のある公道レースを許可するはずがない」「鈴鹿八耐ですら集客が落ちている中でイベントとして成り立たない」「日本人は二輪に無理解だから、熱心なボランティア中心で運営されるマン島TTの真似ができるはずがない」etc...。
「どうせ」「どうせ」のオンパレードでかえって可笑しくなってしまうが、確かに安全性の問題は深刻だろう。僕も、隠れGSX-Rファンとして(お)2003のTTでデビット・ジェフリースが死亡した時は「こんなレースやめてしまえ!」と思ったものだ。
もちろん言うまでもなく、マン島TTが始まった20世紀初頭はモーターサイクルだけでなく自動車にとっても黎明期。現代のスーパーバイクで駆け抜けるリスクとは比べ物にならなかったはずだが、それでも危険であることに変わりはない。
では、当のマン島はいったいどうやってそんな危険な公道レースを“始めた”のだろう?そこで、しばし前世紀初頭に帰って、マン島TT公式サイトから公道レースの歴史をひも解いてみよう。ちょっと長丁場になるが、しばしお付き合いいただきたい。


アメリカの新聞王ゴードン・ベネットが「どの国が一番優れた自動車を作るか」という議論に浮かされて、初の国際対抗自動車レースを開催したのは1900年6月、パリ-リヨン間352マイルだった。フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー製の自動車が参加したこのコンペティションは道に迷うドライバー続出、ゴール地点すら明確でないよれよれ運営で、翌1901年には距離を短縮しパリ-ボルドー間で第2回が開催される。
この時フランス以外の外国勢で唯一参戦したイギリスは、自国製タイヤが保たずフランス製に変え「自国で全ての部品を製造したクルマでなくてはならない」というレギュレーションに抵触して失格。とはいえ、当時斜陽のまっただなかだったイギリス産業界で、レースに勝てる自動車を作れるはずもなかったのだ。
しかし翌1902年の第3回、パリ-インスブルック間のレースでフランス勢3台はオーストリア内の悪路に耐えきれず全てリタイア。対するイギリスは、ドライバーのS.F.エッジの頑張りでなんと勝利してしまう。
実はこれで困ったことになる。勝利国は翌年のレースをホストすることになっていたのだが、イギリスは法令で公道レースの開催を認めていなかった。そこで、主宰するクラブチームの名前(グレート・ブリテン・アンド・アイルランド自動車クラブ)に目をつけたアイルランドイングランドの代わりに名乗りを上げて開催権をせしめ、第4回はダブリン郊外のキルデア州で行われた。この回の勝利国はドイツ。
そのような中でイギリス国内でのレースへの関心は高まりつつあったものの、政府の無理解と法律に阻まれて体制は整わなかった。充分な設備もなく、公道でのレースはおろか、1903年には自動車の速度を時速32Kmに制限する法令が施行されていたのである(当時のレースの最高時速は80Km/h)。
これではレースどころか、イギリス自動車産業が発展するのも難しい。そこでイギリス自動車クラブの理事長ジュリアン・オルドが立ち上がる。彼は進取の気性にあふれるマン島の人々なら自動車レースにも寛容だろう目をつけ、1904年にイギリスとアイルランドの間にあるこの島を視察。ゴードン・ベネット杯を開催する完璧な条件を備えているのを確認すると、いとこであるラグラン男爵がマン島の知事をしていることを利用し、自動車レースの開催を働きかけたのである。
マン島は200年前にやっと荷車が普及したようなところ。そもそも人々は自動車すら見たことがないのだが、ラグラン知事は「まあみんな融通が利くし、すぐ慣れるだろ」とレースを承諾。一年のうちに3日間、日曜日以外に開催するなどの細かい条件を付けて、法案はマン島議会を通過する。承認された法令はさらに国王の是認を受け、その他諸々の法的手続きを経て施行され、同年中にテストレースが行われた。
その年ドイツで行われたゴードン杯がうまく行かなかったこともあって、自動車レースには「例年同じように運営できる安定した開催場所」が必要なのではないかという議論が高まっていた。それを承け、翌1905年にはマン島は自動車レースの中心地となることを決意、より自由度の高い法案を可決する。
その時に議論されたのが、1901年にやっと実用化された「モーターサイクル」をテストする場としてマン島は最適なのではないかという話だ。マン島は世界に先駆けてこの新しい技術の牽引役となることを決め、さらに3日間のモーターサイクルレースのための期間延長を認めることになる──。

こう見てくると、マン島TTレースは「公道レース」というよりも自動車/バイクのロードレースそのものの草分けであったことがわかる。そして、その背後にあるのは各国の開発・技術競争と、その中で何とか優位を獲得しようとするイギリス国民の熱意、そしてマン島の人々の「自分たちの島をそのための中心地にしよう」という決心だった。
──そう、いつの時代もイノベーションを引っ張っていくのは「競走の中で優位に立とう、トップをとろう」という情熱だ(『プロジェクトX』の例をひくまでもないだろう)。山積する難問を乗り越え、不可能に見える状況の中でそれを打開するキーパーソンを見いだすのも、そうした競争で勝利を求める時代の空気なのだ。
そのことに思い至る時、「三宅島TTレース」構想には大きな欠落があることに気づく。「(バイクレースによって)島を復興させよう」という熱意が幸運にも島民の人々にあったとして、それを後押しする大いなる「競争心」とは何だろう?
今の日本をもってすれば、例えば電通博報堂が音頭を取り、各所に経済効果を喧伝してまわって三宅島TTレースを実現に結びつけるのは不可能とは言えないだろう。その気になればジョン・サーティース、スティーブ・ヒスロップといった往年のTTレーサーたちを呼んで「MIYAKEJIMAは新たなモーターサイクルレースの歴史を担うのに最適な島だ」とかわざとらしく言わせたり、伊藤光男、高橋国光といった大御所を運営委員会のトップに据えて箔をつけたりといったことは朝飯前に違いない。
しかし──と僕は思う。そのエネルギーを裏打ちする情熱は何なのだ?今の日本の、さらに世界のモーターサイクル界が抱える「競争心」はどこにあるのだろう?
それは今(ある程度ゆがんだ形で)WGPに集約されつつあるものの、各国がこぞって自国の技術を誇示し、かつ証明したがっていたあの時代は、決して戻っては来ない(それは『万国博』というものが現代に晒している哀れな姿を見れば一目瞭然だ)。

マン島TTの公式サイトのヒストリーには、TTを開催するに必要な条件が羅列され、最後にこう書いてある。
「You couldn't do it now!」
(今やろうとしたってできません!)
それは、マン島のレースが自動車/バイク産業とともに生まれ、TTの歴史はそのまま世界のモータリゼーションの歴史でもあるという事実、そしてそれが二度と同じようには生まれえないものであり、自分たちはそれを大切に育んできたという自負の現れだ。
そう、現代の三宅島が様々な困難を乗り越えてマン島たりえようとすれば、必要なのはかつての自動車産業を包んだような「競争心」であり、それを理解した人々を奮い立たせる「発火点」なのだ。決して見映えのいい企画書に収まった「町おこし」レベルでなせるものではない。
もちろん、僕はだから三宅島TTがあり得ないといっているわけではない。ただ、僕たちは警察とか安全とか、そんな誰かがすればいいような実務の話をするのではなく、レースを支える情熱の「発火点」とはどこなのか、そしてこの一見成熟したモーターサイクルの世界において僕たちを熱くする新たな「競争」とは何なのかを自問していくべきではないか、と感じるだけなのである──。