スクール・ボーイ

午後9時30分。夜の帳が下り、砂漠地帯特有の冷気がサーキットを覆い始めた頃、ゴロワーズヤマハのクルーの一人はピットウォールの向こうで誰かが動いているのに気づいた。マックス・ビアッジがスタートする12番グリッド上をホウキで掃き、路面を覆ういまいましい砂を少しでも取り除こうとしているのは、ホンダ・ポンスのスタッフだった。
240馬力を受け止める後輪がスリップせずきちんと使い物になるよう、砂や埃で覆われたグリッドを掃除しておくのはそれほど特別なことではない。
「おっ、ウチもやろう」
自然とそう考えたスタッフは、チーフメカニックのジェレミー・バージェスにそのことを告げた。
しかし世故に長けたバージェスは、彼にホウキを持たせる代わり、こうした新設のサーキットに適したより強力なやり方を教えた。ヤマハのスタッフたちは2台のスクーターを持ちだし、ロッシのグリッド上でバーンナウトを繰り返し、路面にゴムを付着させていったのである。
夜のピットロードに響くエンジンの音に、他のチームのスタッフも何事かと集まってくる。彼らは切れ切れのタイヤ跡で形作られていく幅30cmほどの線を見ながら、これは確かにうまいやり方だが、明らかに「プラクティス開始以降、サーキット路面を洗浄または清掃することを禁ずる」というFIM規定の一項に抵触するのではないかと考え始めていた。
「何をしてるんだ?」
セテ・ジベルナウのメカニック、ファン・マルティネスがバージェスに尋ねた。バージェスは臆面もなく笑って答えた。
「見ての通りさ。君たちもやったらどうだ?」
経験にあふれたバージェスは何も疑っていなかった。規則って奴はどうにでも解釈できる。これは「路面コンディションを操作」してるんじゃなく、「グリッド上に目印をつけている」のだ。明日のフリー走行でロッシが毎回ここを通過すれば、自然とベストライン上がキレイになるという建前がある。彼はこうした方法をウェイン・レイニーとも、ミック・ドゥーハンとも行なったことがあった。
「それは考えものだな」そう言うとマルティネスとジベルナウはピットに戻り、この点について少し考えた。そう、確かにこれまでスタート前にグリッドを多少キレイにしたとして、ペナルティを受けたものはいない。路面にゴムを擦り付けるのはやり過ぎといえなくもないが、前例がないわけじゃない。
しかし、と二人は思った。バージェスは一つ重要なことを忘れている。今がほかでもない、熾烈なチャンピオン争いのかかったシーズン末期だということを──。


「バージェスのやったことは、明らかにルールに抵触する」話を聞いてそう考えたHRCのディレクター、カルロ・フィオラーニは翌朝、他のホンダのスタッフとドゥカティのチームクルーを引き連れて8番グリッドへ集まった。そして、彼らは一様に自分の目を疑った。
そこには、タイヤのブラックマークなどどこにも残されていなかった。
HRCスタッフがヤマハのピットに走った。バージェスの姿はどこにもない。
「タイヤのマークはどうした!」
一人がヤマハのスタッフを捕まえ、いきおいこんで尋ねる。
「ああ、あれね」スタッフは気にも留めない風で答えた。「ロッシのグリッドが誰かにペイントで落書きされてたのさ。だから、オフィシャルに言って拭き取らせた」
「拭き取った?」ホンダのスタッフは信じられないという顔をした。
「そうだよ。アセトンとかいうのを使ったのかな。その時に消えたんだろ」
付着したタイヤ跡を拭き取ったことで、アスファルトの表面の隙間にゴムがしっかりと入り込み、路面はますますグリップを増す。やられた。これは確信犯だ──。
激怒したフィオラーニの指示で、グレシーニ、ポンス、ドゥカティの関係者が走り回る。大急ぎでタイプされた抗議書を手に、チームスタッフが慌ただしくコントロールタワーへ上がっていく。パドックの端、ポンスのピットには人だかりができている。抗議が提出されると聞いて、ヤマハ側がこんどはビアッジのクルーに同じ抗議を始めているのだ。
じりじりと気温が上がり始めたピットロードで、ジベルナウがその騒ぎを静かに、しかしどこか面白げな表情を浮かべて眺めていた。ジベルナウは振り返るとマルティネスに言った「今日は暑くなりそうだな」──。*1

趣味で相当に脚色させてもらったが、例のカタールGPでのロッシとビアッジのグリッド降格騒動について、各ライダーのコメントとトーチュウ遠藤記者の有料記事、また“スペイソたん情報”をかみ合わせればこんな感じになるかもしれない。
各関係者のコメントに隠された意図はともかく、事実は2つ。一つはコースマーシャルが出す旗のコントロールや“危険走行”の定義含め、GPってのは意外とルールやその履行がいいかげんだということ*2。もうひとつはこの事件がロッシとジベルナウのポイント争いの趨勢がいよいよ決するこの時期に起きた、ということだ。
ジベルナウ(あるいはチーム・グレシーニ)の明らかな“告げ口”だと言うものもいるし、強敵にはすぐにかみつくといってロッシの舌鋒を非難する人もいる。世界選手権ともありながら、そのルールの曖昧さについて憤慨するむきもあるだろう。ただ一人、騒動の最中なんら感情を荒げず、「おひさまポカポカ」な表情のビアッジが不気味ではあるが。
とはいえ北野武の父親言うところの「プロの観客」に徹したい僕は、実はこうした舞台裏騒動は嫌いではない。レーサーだって人間だ。そしてGPは組織同士の戦いでもある。カネ、権力、組織力、政治──そうしたものが入り交じるのは、ある意味当然だから全面的に否定はしない。謀略、奸計がちらつくときもあるだろう。
そうした周囲がどう騒ごうが、結局その勝敗を決める最後の一瞬はライダー個人の能力であるという事実。それがすっかりあやふやにならない限り、僕はロードレースを楽しみつづけるだろうと思う。

*1:注:このストーリーは筆者の完全な憶測に基づくフィクションであり、実際の出来事、また人物・組織とは何の関係もありません。

*2:レース前後に車検があるのだから、こうしたグリッドコンディションの検査とかそういうのも組織的にやればいいのに、と思うのだが、そうもいかない事情があるのだろうか。