イギリス帰りの男

意外な過去
僕が行きつけにしている美容室は、ほとんど人の通らない裏通りにある。置いてある椅子は二脚きり、スタッフも二人という小さな店だ。英ヴィダル・サスーンで修業して帰国後この店を開いたというオーナー兼美容師は、年の頃34、5歳、なるほど腕はいい。大柄で、たっぷりとした体を揺らしながら歩き、どこか映画『ハリー・ポッター』のハグリッドを思わせる男だ。
髪を切られている時に床屋や美容師と話すのを嫌う人もいるが、僕はどちらでもない。適当に話が合うならまあそれでいい。ただ競馬と野球と邦楽の話は願い下げ、という程度だ。
その日は西から急激に雨雲が近づいてきていて、湿り気のある空気があたりを満たし始めていた。必定、天気の話になる。僕が雨はほんとうに嫌だと憎々しげに言うと、美容師は不思議そうな顔をした。僕がバイクで峠に出かけられないからだと説明すると、彼はいつものちょっとおどおどしたようなな口調で、僕もバイクに乗っているんですよ、と言った。
その話なら前にも聞いたことがある。ほら、店の前面を覆う大きな1枚ガラスの向こうに停まっているマジェスティがそれだ。世の中のビッグ・スクーター乗りという人種にほとんど興味のない僕は、彼もファッションと移動性を兼ねた便利な乗り物としてスクーターを使っているだけの“一般人”なのだろうと思っていた。だから、いつも話はそこで終わり、だったのだ。
でも、雨に降りこめられて一週間以上バイクに乗れずにいた僕は、自分とバイクについてもう少し話してみたい気分だった。僕が奥多摩周遊道路の話をし始めると、彼のハサミを握る手が止まり、長い前髪の奥の眼がちょっと輝いた。そして彼はうれしそうに話し始めた。実は僕も若い頃、毎週奥多摩へ通っていたんですよ──と。


伝説の時代
黄金の80年代──派手なカラーのレーサーレプリカが街を埋め、道が少しでも曲がっていればそこでコーナリングを競うライダーが群をなし、日本中のあらゆる峠が『バリバリマシン』で紹介されていたあの頃。彼は実は、そんな時代の住人だったのだ。
──最初に乗ったのはFZR250でしたね、と彼は自分のバイク遍歴を話し始めた。低重心のジェネシスエンジンを搭載したヤマハの4ストレプリカだ。それでしばらく走った後、ホンダのVFR400Rに乗り換える。強靱なアルミツインチューブフレームにプロアーム、ワークスマシンRVFの純血を受け継いだ生粋のレーサーレプリカ。話からすると、彼はこのマシンを最も気に入っていたようだ。
毎週奥多摩へ集い、カメラの放列が待ちかまえるギャラリーコーナーで膝を突き出して華麗なライディングフォームを披露する。奥多摩に着く頃はすでにどろどろになっているという、公道使用の限界までソフトなコンパウンドのタイヤを惜しげもなく履き、一月もたたないうちに使いつぶした。よくお金がありましたよね──と、彼は笑いながら他人事のように言う。
そのVFRとの別れは突然にやってきたが、それは彼の現世との別れにもなりかねない出来事でもあった。勾配を駆け登り、ギャラリーコーナーに向かって気合いを入れようと100Km/h近くまで加速していった彼の目の前で、対抗の下りレーンから来たライダーがいきなりUターンを決めたのだ──。
ろくにブレーキをかける間もなくそのバイクの横腹に突っ込んだ彼のVFRは、何度も回転して路上に叩きつけられながら吹き飛んだ。しかし幸運なことに、彼自身は革ツナギを着ていたこともあってか驚くほど軽い怪我──前腕部の骨折──で済んだのだ。彼はかけつけた救急車に介護役の仲間とともに突っ込まれたが、そこにはかのUターンしてきたライダーもいっしょに詰め込まれた。元凶を作ったのは相手とはいえ、足があらぬ方向を向いたまま苦そうにうめくその人の横で、彼はずいぶん気まずい思いをしたという。
それでも懲りないのが80年代レプリカ乗りだ。退院した彼は今度はかの伝説の2ストマシン、88年型NSR250Rを手に入れた。ホンダがSP(市販車改造)レースでTZR250を倒すことを目指して送り込んだ比類の無きこの公道レーサーは、配線次第で当時の規制値より15ps以上もパワーが出るといわれ、全国のレプリカライダーの憧れとなっただけでなく、悲しいかな多くの人の墓標ともなった。
彼も例外なくこの最強マシンに牙を剥かれ、コーナーでスリップダウンを期してNSRは廃車の運命をたどる。その後懲りずに再び友人から同じ'88NSR250Rを手に入れるが、ほどなくして興味は四輪のほうへ移り──そこからはマジェスティまで空白、というわけだ。

消えたライダーたち
同じような時代を生きながら、当時むしろネイキッドを支持しレプリカに背を向けていた僕にとって、彼のような人は伝説の中の登場人物のようだ。あの頃の奥多摩周遊道路の白眉が、現在2ストレプリカのライダーたちがローリングを繰り返す浅間尾根駐車場から数馬駐車場のいわゆる“小僧区間ではなく、今では“まったりライダーも安心”な区間に区分けされているヘリポートから月夜見第一駐車場までだった、などと聞くと隔世の感がある。
80年代──バイクが売れに売れた時代、バイクが“ぶぁいく”だった時代、バイクに乗ることとレース観戦が同義だった時代。ロバーツ。ローソン。スペンサー。バイクメーカーも当時を知るライダーも、未だにあの頃を引き合いに出し、そこへ立ち返れたらと懐かしむ人は多い。
しかし、エースカフェやカフェレーサーが興隆した50〜60年代のイギリスにはそれなりの時代背景があったように*1(そしてその時代が二度と同じ形でに戻っては来ないように)、あの80年代の熱狂は、あの時代の空気の中でこそ生まれ得た“過去の出来事”だと僕は思っている。
それでも、当時峠を埋め尽くしていたあれほどのライダーたちはどこに行ってしまったのだろう?ある日高度な文明を捨てて密林に入り、一斉にどこかへ去ってしまったマヤの人々のように、80年代のワインディングを埋め尽くしたライダーたちも忽然とどこかへ消えてしまったのだろうか?カラスの死体が決して見つからないように、彼らもひっそりと目につかないところですべてをしまい込んでいるのだろうか?
僕がハーレーに乗っていたことがあると言うと、いいですね、と彼はドライヤーを遠ざけて身を乗り出した。自分もいつかはハーレーに乗りたい、そうしたらこの美容室も革製品やバッファローの角を飾り、ハーレー乗りのテイストで埋め尽くしてしまうのももいい、と彼は話す。
──バイカーズ・ヘアサロンか、面白いですね、と僕も答える。カットももう終わりに近づいていた。そう、少なくともあの頃の一人はここにいた。

僕が現在のCBR600RRの話をしても、彼にはどこか遠い国の話に聞こえているようだ。彼にとって目を三角にしながら小排気量車で峠を攻める“危険な遊び”は、もう終わってしまった時代の楽しかった思い出なのだろう。「もうのんびり走りたいんですよね」と話す彼の話を聞きながら、僕は峠攻めレプリカからハーレー・ダビッドソンに至る間の“何か”を、日本のバイクは与えることができなかったのだろうか、と考えていた。
スポーツバイクにまたがる誰もが知るあのちょっとした非日常、背中をぞくりとさせるようなエキサイトメントは、僕の知る限りハーレーには無い。疲れるほど速くはなく、かといってクルージングだけが能ではない。しかし紛れも無くあの頃の興奮が匂ってくる──そんなマシンが登場すれば、彼らはきっと石の下からわらわらと出てくるのではないか。僕にはそんな気がするのである。

*1:労働者階級が車を買う余裕がなかったこと、ロックンロールとカフェのジュークボックスの存在、レースで自社の製品の性能を測るメーカーの風潮、そして改造車によるアイデンティティとステータス──と、『RIDERS CLUB』誌6月号でアラン・カスカートは考察している。