ステッカー・ジャンキー

Jet2004-05-09

ツナギをどうやって保管する?
革ツナギというのは、実際に手に取ってみるとひどく重いものだ。革だけでなく各部のプロテクターやパッドなどもあるのだから、重さを量ったら実際5キロくらいはあるんじゃないだろうか*1。それが身に付けると重さなど感じなくなるのだから大したものだが(表皮なんだから当たり前か)、困るのはその置き場所だ。
自宅のクローゼットは下半分に衣装ケースが収まっているので、全身分の長さのあるツナギをぶら下げておくわけにはいかない。たとえ提げたとしても、前傾姿勢に裁断されている上に背中にこぶまでついているこんなものを入れたら、幅を取って他の上着が何着も追い出されてしまう。
コート掛けのようなスタンドを物色したが、なかなかしっくり来るものがない上に、意外と革ツナギの重量バランスに耐えられるものが少ない。思えば、購入したBOSCO MOTOの試着室にあったハンガーも「ツナギを2着掛けると倒れる」と注意されていたくらいだ。ショップ用でそれなのだから、一般的なコート掛けが役に立たないのも当たり前かもしれない。いったい他の多くのライダーたちは、どうやってツナギを保管しているのだろう……?
というわけで最後の手段。僕は長さ一メートルほどの板きれにフックとなる短い棒が数本突き出た帽子掛けを買ってきて、自室の壁に打ち付けた。敷金なんてくそ食らえだ(笑)。クローゼットの扉上部の框に接するように取り付け、壁に打った釘だけでなく框全体で帽子掛けを支えるようにした。これで、かなりの重量物が下がっても(フックそのものの耐荷重を別にすれば)心配はない。
取り付けてみると、クローゼットの框と帽子掛けの色が全く合っていないこともあり、まさに取ってつけたようで貧乏臭く、落ち着かない。それではいっそのこと、と僕はため込んでいたバイク関係のシールやステッカーを引き出しから引っ張り出し、帽子掛けの横木に張りまくってみることにした。


傷ついたワープロ
自分のものにシールを貼ることに関しては、妙な執着がある。まっさらの新品は誰のものともわからない無名のマスプロダクトだが、何かシールを貼った途端にそれが自分だけのものになるような気がするからだ。
結婚を機に買った富士通の大型冷蔵庫も、すぐ中央にAppleの白リンゴシールを貼って「“iRef”だ」などといって悦に浸っていたし(笑)、先日買い替えた洗濯機も、妻の反対を押し切って届いたその日にMotoGPロゴのシールを貼ってしまった。通勤用に一時アタッシェケースめいたものを使っていた時は、一面にGP関連のステッカーを貼って、クライアントのところに行く時だけ表裏を逆にして持ち歩いていたりもした。
シール貼りがはじまったのは、大学時代のパナソニック製のワープロがきっかけだ。映画サークルでシナリオを書いていた僕は、なけなしのお金で買い込んだこともあって、当時としても驚異的に小さかったそのラップトップのワープロをたいそう大事にしていた。文字通り傷一つつかないように、慎重に使っていたのである。
ところがある時、何か重いものを落としてボディ後部に大きな傷を入れてしまった。ひどくショックを受けた僕は、当時趣味の一つだったエアガンの補修に使っていたプラスティック用のコンパウンドを取り出し、傷を消そうと磨き出した。
そして数回こすった後、僕はわが目を疑った。傷のあったあたりの塗装がすっぱりとはげ落ち、地のプラスティックが鈍い色をのぞかせている。焦るあまり、そのワープロの表面が塗装処理であることなど思いもしなかったのである。
もはやいかんともしがたい窮地に陥った僕は、ちょうど近くにあったシールから適当なものを選び出し、傷んだ部分に合うように切り出して貼り付けることで、そのみっともない塗装剥げを隠すことにした。確かバルセロナ・オリンピック関連のステッカーだった。
なんとかごまかせたが、出来上がりは美しいとはいえない。でも、僕は内心ひどく驚いていた。そのシールを貼ったことによって、“宝物”だったワープロに──こっぴどく傷をつけた後にもかかわらず──これまでにない愛着が沸くのを感じたからだ。これは、チリ一つ落とさず使っていた「新品同様」のものではなく、傷をつけ、塗装を剥がし、それをシールで隠した歴史を持つ、世界にただ一つの“自分の”ものである、と──。

“バイク馬鹿”への憧憬
いい大人になった今では、そこまで“モノ”に物質愛的なものを感じて大事にすることもないが、それでもある程度新鮮味が薄れたものや、今一つ愛着のもてないものにはなんであれシールを貼って“自分のもの”感覚に浸る癖は抜けていない。そのために、ステッカーを集めたり買ったりする機会はできるだけ逃さない。もちろん集めるのは自分の好きなテーマだけだが、その点GP関連やバイク系は何かとシールやロゴステッカーを手にする機会が多くていい。
MotoGPロゴ、'03パシフィックGPの時のホンダのRIDE TOUR、ヨシムラ、懐かしのキャメル・プラマック・ホンダ・ポンス、加藤大治郎のDKマーク、はては「ライダーシップ宣言」とかいう得体のしれないステッカーなどを、僕は帽子掛けにぺたぺたと貼りつけていく。自分で言うのもなんだが、それでお世辞にもカッコよくなったとはいえない。むしろ激しくダサい。
でもなんだか、その野暮ったさ、騒々しさが気持ちいい。壁に掛かった革ツナギやインナースーツと、節操なく貼られたバイク関係のステッカー──。僕はその取り合わせに、失われた、あるいは自分が手に入れられなかった“バイク馬鹿人生”のようなものを見るのだ。
六畳一間のアパート。なけなしの押し入れにはバイク雑誌のバックナンバーといつか直す予定のもらいもののMonkeyが詰まり、壁には着るものと言えばそればかりのライディングジャケットやよれた革パンツが野暮ったくぶら下がる。暇さえあればバイクで峠に出かけ、夜は仲間と煙草をふかしながらバイクやパーツ談義に明け暮れる──。
そんなバイクライフは家族持ちとなった今となってはもう送れないし、事実むかしも、そこまで“濃い”バイクとのつき合い方はしていなかった。でも今、そんな気分を忘れたくないと思う自分がどこかにいるのだろう。“オトナだから”オンとオフをきっぱり分けたり、趣味は趣味として色つきの領域に押し込めてしまうのは好きじゃない。パソコンに向かって仕事のメールを書きながらでも、大仰な革ツナギが部屋の壁にでんとぶら下がっているのに目をやれば、ワインディングへの入り口はもうそこにある。
自分を熱くさせるものは、とろ火のように静かにそして常に、心の底を炙っていて欲しい。何かにそれだけ情熱を傾けているという事実が、どんな時でも自分をあるべき中心に戻してくれる。そう僕は思っているからだ。

*1:実際にラフに量ってみたら、4キロちょっとあった。