ユニオン・リユニオン

Jet2004-04-13

季節外れの雪景色
季節は春。ときに汗ばむほどの暖かい陽気が続き、桜もすっかり鮮やかな葉桜に変わろうとしている。でも、僕のクルマのタイヤはブリザックを履いたままだ。これだけ暖かくなっても、まだ僕はスタッドレスタイヤを外さない。ゴールデンウィークまではこのままにするつもりだ。理由は、去年の4月6日にある。
その日、鈴鹿サーキットで行なわれる日本GPを観戦するために、僕は友人と家族とともに意気揚々と出発した。「人数で割ればトータルではクルマの方が安上がり」という思想のもと、高速で一路妻の実家がある大阪へ向かい、そこから翌朝鈴鹿入りする、というのが僕たちの計画だった。
それに先立ち、スタッドレスからノーマルタイヤに戻しておく。そのまま大阪へ向かってもいいのだが、4月にもう雪道なんて走ることはないだろう(南へ向かうんだし)という目論見と、あまり長距離で浪費してライフを短くしたくない、というケチな考えがあった。それが全ての間違いの元だったのだけれど。
八王子を過ぎた辺りから雪がちらつき始め、まさか積もることはないだろうと思っていたらほどなくして上野原ICで通行止め。降りしきる雪の中、国道20号の渋滞を避け、南下して東名に乗り換えようと目論んだのが大失敗で、すぐに険しい峠道でスタック。押したり引いたりしながらなんとか山を越え、市街地に入れば何とかなるだろうと思ってたどりついた富士吉田市では20センチの積雪が僕たちを待っていた。
ステアリングを右いっぱいに切ってもまっすぐ走るという状況の中、にわかドリフトキングと化しながら必死で運転し、飛び込んだ見知らぬ整備工場で急遽チェーン(昔懐かしい鎖!)を買って巻き付け、東名御殿場にたどり着くまで実に6時間。大阪に入ったのは夜中という散々な往路だったのである。


あの日
この事件で「スタッドレスは早々に外してはいけない」と深く思い知らされながら寝不足の目をこすって鈴鹿入りした僕たちを待っていたのは、あの日本GP、あの三周目のシケインだった。
気がつけば加藤大治郎が事故死してからもう一年が経ってしまっている。周囲の努力むなしく帰らぬ人となったのは4月20日だけれど、僕にとっては彼の意識がふつりと途切れたままになったあの4月7日こそ、彼の命日であるという思いが頭からとれない。
信じられないことにトップをひた走るロリス・カピロッシのデスモセディチとそれを追うロッシ、ビアッジが目の前を駆け抜け、僕たち含めシケインスタンドにいたほぼ全員は最終コーナーを目で追っていた。数秒後、第二集団をとらえようとシケイン入口に頭を戻した僕たちの目に映ったのは、散乱するパーツと力なく横たわるテレフォニカ・モビスター・ホンダのライダーだった。
周囲が総立ちとなり、ほとんど何も見えなくなる。首を伸ばして様子をうかがっていた妻が「大治郎!?」と叫ぶ。マーシャルが慌ただしく飛び出し、ライダーを退避させパーツを避け始める*1。もちろんこの時は、横たわって動かなかった不吉な姿に不安を感じながらも、彼の負傷がどれほどのものであるのか想像はつかなかった。レース終了後の「頭部負傷、病院に搬送され“手当て”を受けている」という場内のアナウンスから多少の安堵感を無理矢理心に押し込み、僕たちはサーキットを後にした。
恐れが現実になったのは、その夜だった。ホテルに帰ってきて、とりあえず情報を探ろうとノートPCを開き某巨大掲示板にアクセスした僕の目に飛び込んできたのは、
「 加藤イキロ」
というスレッドだった。タイトルに踊るおなじみのふざけた文字遣い(キロは省略文字)が、今日は全く違う意味を示唆しているのは明らかだった。あの掲示板を見て血の気が引いたのは、後にも先にもあの時だけだ。目を移せば、同じように大治郎が昏睡状態にあることを扱ったスレッドがいくつも情報を伝えていた。

集まる場所
その後の経緯はGPファンなら多くが知る通りだが、僕はその夜、楽観と悲観が錯綜する掲示板をじっと追いながら、こんなとき、どうして僕たちには「集まる場所」がないのだろう、と考えていた。1980年にジョン・レノンが射殺された時、人々がキャンドルを持ってダコタ・ハウスの外に集まり、彼の死を悼んで歌を歌い続けた*2ように──。
誰もが大きな出来事にショックを受け、一人でいたくなくなる時、ぽつりぽつりと同じ思いを抱えて集まり、無為とはいえ「集合」という形でそれを形にする──そんな場所は、どう考えを凝らしても出てこなかった。
しかしその時以来「モーターサイクルやレースを愛する人たちが自然と集まる場所」について、僕はずっと考え続けている。それは、ライダーが大抵(バイクの話をしたがっている、という意味において)寂しがりであり、いつもそんな“空気”を求めて大型用品店に出入りしたり、ときにはバイクショップの常連と化して用もないのにたむろする、ということの受け皿でもある。
オイルやゴムの焼ける匂いがかぎたくなった時、メカの話がしたくなった時、レースの感動を誰かと分かち合いたい時、そして大切な人をなくした時──そんなとき、自分のバイクを傍らに置き(ライダーって、自分のバイクに触ってると落ち着くものだから)、誰ともなくそんな気分を共有できる。ライダーが大手を振って集まるそんな“聖地”があってもいい(保土ケ谷SAや芝浦PAのような“人の土地”じゃなく)。そう、僕が求めているのはかつての「エース・カフェ」*3、その日本版なのかもしれない。
結果として、加藤大治郎が他界して後、僕たちGPファンやライダーが集る場所は作られた──ホンダの青山ウェルカムプラザに。記帳を済ませ、壁に飾られたパネルや展示されているNSR250VTR1000SPWを眺めながら、僕は一企業にこうした場を提供してもらわなくてはいけないことに少し無念さを感じていた。しかしそれと同時に、「世界的なモーターサイクルメーカー」「ヴィクトリーチーム」「偉大なライダーのNation」を兼ね備えたこうしたホンダのような会社が身近にあり、こうしたことを行なってくれるのは実はすごく恵まれたことなのかもしれない、とも考えていた。
でも、本当の文化としてのモーターサイクルを考えた時、それでは少し寂しいような気がするのも確かだ。だとすればそうしたことについて考え、行動するべきは他でもない、まさに僕たちの世代なのかもしれない。

*1:レース後、頚椎損傷の可能性があるライダーをなんの保護処置もなく移動させた件についてマーシャルを非難する声が多く上がった。現場を見ていた限り、「早く移動させないと二次事故につながりかねない」と焦るマーシャルの雰囲気はこちらにも伝わってきたし、正直、観戦している僕もそういう焦りをどこかで感じていた。レース開始直後の緊張感と、目の前を過ぎるMotoGPマシンの猛烈なスピード(それがこの事故の要因の一つではあったが、エスケープゾーンの狭い鈴鹿で間近に見るMotoGPマシンの速度感は近代的なツインリンクもてぎのそれとは比べ物にならない)と爆発的なエギゾーストノートに高ぶった神経が、そういう焦りを呼び起こすのかもしれない。

*2:あれはあれでオノ・ヨーコ女史には堪え難い苦痛だったらしい。それはそうだ、伴りょの死の痛みに苛まれている最中、それを増幅するかのように故人の歌が昼夜、数日間も窓の外から聞こえてきたら──。

*3:1950〜60年代、ロンドンの北環状線沿いにあったカフェ。トライアンフノートンなどのブリティッシュスポーツを愛する若者たちが夜な夜なたむろし、バイク談義や低いクリップオン・ハンドルにシングルシートという「カフェ・レーサー」スタイルのバイク自慢、そしてちょっとしたレースに明け暮れた。アメリカン・クルーザーに乗る「Biker」、ベスパなどのスクータを飾る「Mods」と対比して、ブラックレザーに身を包みエースカフェに集まる彼らを「Rockers」と呼ぶ。イギリスバイク産業の斜陽と事故の多発による社会的反発の増大ともに衰退し、69年に閉鎖。
しかしその後、94年にロンドンの若き警官マーク・ウィルズモアの呼びかけで往時を蘇らせるイベント「エースカフェ・リユニオン」が行われ、6000人以上のライダーが集合。それをきっかけとして2001年にウィルズモア氏をオーナーとして再び営業を再開した。ロッカーズとモッズの対立については、映画『さらば青春の光ASIN:B0001FAB44The Whoファンはもっと必見)。
↑ここまで書くならはてなのキーワードにしたほうがいいか…。